第二時 日露戦争を決した日本海海戦
発問1 日露戦争の戦場はどこでしょうか?陸で二つ、海で一つ挙げなさい。
説明 陸では旅順、奉天などです。海は日本海です。
旅順の戦いは日露戦争最大の激戦と言われています。奉天の戦いは日露戦争の関
ヶ原と言われています。いずれも日本はかろうじて勝利します。勝敗を決する戦
いが日本海海戦と言われていました。
世界地図を示す。(ロシアのバルチック艦隊の出発港を図示する。)
説明 明治37年(1904)10月15日にリバウを出発して、アフリカ喜望峰を
11月中旬に越え、マラッカ海峡、シンガポール沖を翌年4月9日に通過しまし
た。その時に威容を誇るバルチック艦隊を見た人々は「これで日本は終わりだ。」
と言ったそうです。
両艦隊の数や大きさの比較の表を示す。
バルチック艦隊 旗艦スワロフを先頭に戦艦8、巡洋艦9、駆逐艦9、海防艦3、
特務艦9、合わせて38隻。排水量合計21万4千トン。
日本艦隊 旗艦三笠を先頭に戦艦4、巡洋艦21、海防艦4、水雷挺39、通報
艦3、合わせて91隻。排水量合計20万6千トン。
説明 当時の海戦の勝敗は、戦艦がそなえているいちばん大きい12インチ砲(弾丸の
直径30センチメートル)や10インチ砲の数で決まるといわれていた。
発問3 バルチック艦隊と日本艦隊を比べてみてわかったことをノートに書きましょう。
数人に聞いてみる。
日本近海の地図を示す。
発問4 バルチック艦隊は日本海に、対馬海峡か津軽海峡か、どっちまわりで来るでしょうか。
実は日本艦隊総司令長官、東郷平八郎も悩んだ所でした。みなさんはどう思いますか。
ノートにどっちか一つ書きましょう。
数人に聞いてみる。
説明 いろんな情報を得て、東郷指令長官は対馬海峡まわりで来ると考えました。
理由はいくつかあります。…
説明 さて、いよいよ明治38年(1905)5月27日、決戦の日が来ました。
ほとんど一日で勝負がつきました。
両艦隊の被害状況について表で示す。
日本艦隊 失われた艦船は、水雷挺3隻、損失排水量255トン、
戦死者105人。
バルチック艦隊 撃沈 戦艦6、巡洋艦6、駆逐艦5、海防艦1、特務艦3。
捕獲 戦艦2、駆逐艦1、海防艦2。
第三国に逃げて抑留 巡洋艦4、駆逐艦1、特務艦2、病院船2。
ウラジオストック港に到達したもの 巡洋艦1、駆逐艦2。
特務艦1は本国に逃げ帰った。
損失排水量19万5千トン。戦死者4545人。捕虜将兵6106人。
発問5 被害の比較をみて、わかったことをノートに書きましょう。
数人に発表させる。
説明 圧倒的な日本艦隊の勝利でした。
発問6 日露戦争の結果について各国の反応はどうだったでしょうか。(数人に聞く。)
説明 各国の反応について紹介する。(『東郷平八郎』上原卓著 明治図書 1997.12 より)
世界の人々は、あのバルチック艦隊がほとんど全滅し、日本艦隊が百トン足らずの水雷挺三隻を失っただけという結果を聞いて初めのうちは信じませんでした。
1 同盟国のイギリスでさえ、「日本は被害をかくしているのではないか。」と疑いました。
2 イギリスのある海軍研究家 「この海戦を境にして白人優勢の時代はくずれていくだろう。近い将 来、白色人種も有色人種も同じ立場でやっていかなければならなくなるだろう。」
3 インドネシアの人たち あのバルチック艦隊を日本艦隊が壊滅させたことを知ったときの驚きは大 変なものでした。「いつの日か日本は、アジアの民族を白色人種のくびきから解いてくれるにちが いない。」と期待するようになりました。(当時イギリスの植民地)
説明 西欧列強は、自分たちの植民地支配をおびやかす危険な相手として、日本に警戒
心をいだくようになっていきます。