”北仙北インターネット協議会(きたうら花ねっと)”
  角館町、中仙町、田沢湖町、西木村の4町村をエリアとする北仙北インターネッ
 ト協議会(柏谷圭一郎会長)、通称「きたうら花ねっと」は秋田県のインターネッ
 トの草分け的な存在と言える。1996年7月25日、県の補助を受けて県内でトッ
 プを切ってインターネットへの接続サービスを開始したからだ。事務局となってい
 る「デジタル・アート・ファクトリー」は劇団「わらび座」の拠点にもなっている
 「たざわこ芸術村」にあり、長瀬一男さん(湯沢市出身)を事務局長に、海賀孝明
 さん(栃木県宇都宮市出身)、小林長子さん(西木村)、高橋路子さん(田沢湖町
 )、黒川匡子さん(横手市)の4人のスタッフがいる。
 
  きたうら花ねっとの存在感を高めているのは何と言ってもパソコン操作及びイン
 ターネットに関するハイテク技術に長けている長瀬さん、海賀さんの存在だ。長瀬
 さんは15年前からコンピューターを使い、わらび座の顧客管理、ホテルや劇場の
 経理などのデーター管理に携わって来た。海賀さんも小学6年のころからパソコン
 をいじり、大学に入ってからはプログラムづくりの研究と常にパソコンと一体の生
 活をしてきた。それだけにインターネットと言うものがまだ大学での研究段階だっ
 た時代から手がけ、将来はこれが社会を大きく変える要素になると予測。長瀬さん
 は秋田大学に通い詰め、95年9月には同大学のコンピューターを利用して一般に
 はまだ未知の世界だったホームページを立ち上げている。
 
  その長瀬さんの当時の夢は「わらび座にサーバーを設置したい」と言うことだっ
 た。そんな折りに海賀さんというコンピューター技術に長けた人物がいるという情
 報をつかみ、当時、科学技術庁管轄の特殊法人「新技術事業団」に勤務していた海
 賀さんを熱心に勧誘し、わらび座のコンピューター室に迎え入れた。インターネッ
 ト元年とも言える1996年4月1日だった。
 
  海賀さんを迎え入れた長瀬さんは秋田大学を中心に設立された秋田県インターネッ
 ト研究会に通ってその活用方法を研究、一方の海賀さんはサーバー制作に取りかか
 り、北仙北でのインターネット時代の幕開けに備えた。
 
  長瀬さんは話す。「インターネットは3分10円の電話料金で使える時代になっ
 て、初めて地域間格差がなくなる。しかし、4年前はインターネットを使うとする
 と仙台に接続して、そしてやっと秋田市へと距離が短縮されたが、それでも電話料
 金はとんでもない金額だった。いずれ秋田市から横手市、大曲市、大館市など県内
 各市が『3分間10円』のエリアになるだろうが、人口4万7000人しかいない
 北仙北4町村は黙っていたらいつになるか分からないと危機感を抱いた。インター
 ネットが自由に使える環境に整備されるまで1年遅れたら、利用者の意識の遅れは
 もっと大きくなると思った。だから、ここはどんな無理をしてでもインターネット
 を使える環境にすべきだと県に掛け合って補助を出してもらい、いち早くインター
 ネット環境を整えた。とにかく早くスタートすることは次へのステップアップが可
 能だ」と当時を振り返る。
 
  この長瀬さんの国や県への働きかけが切っ掛けとなって、次々と県内に県と市町
 村の補助を受けた地域プロバイダーの誕生となった。インターネット新聞「秋田県
 南日々新聞」の誕生も長瀬さん、海賀さんの協力が大きい。私事なるがこの新聞の
 ホームページを作りたいと夢を抱いたのは大曲市のプロバイダー「おばこネット」
 がスタートした96年10月だった。おばこネット誕生と同時に記者(伊藤正雄)
 はそれに入会し、様々なホームページを巡り歩いたが、正直言ってその価値観が分
 からず、当初はかなり困惑した。「インターネットは面白い」「インターネットは
 無限の可能性を秘めている」。そんな概念を抱いてのインターネット入会だった。
 確かにハップル宇宙望遠鏡のホームページで見た宇宙の世界や美術館巡りなどは最
 初のうち楽しかったし刺激的だったが、それだけしかなかった。
 
  結局、自分に役立つのは朝日新聞や毎日新聞など新聞社のホームページしかない
 と思い、それだけを時たま覗く程度となったいた。ところが新聞社のホームページ
 を見ているうち「もしかしたら自分のホームページを持ったら、自分でも新聞社を
 興せるのではないか。インターネットなら紙もいらない。印刷工場もいらない。お
 まけに新聞配達もいらない」。まさに「いらない尽くし」なのだ。メラメラと夢が
 燃え上がった。「ホームページを作ろう。ホームページを持とう」。呪文のように
 唱えたが、最大の難点は記者自身、パソコンはあるものの全くの“パソコン音痴”
 である。
 
  ホームページを持とうと思ってもどうひっくり返ってもそれを作る才能も知識も
 ない。まさに無い無い尽くしなのである。おまけに周囲にもそれに関する知識を持っ
 た人はいない。2週間ばかり考えに考えて焦ったが暗いトンネルに入ったままだっ
 た。救いの手を差し伸べたのが当時、県仙北総合庁舎地方部に勤務しながら、イン
 ターネットの普及に努めていた成田秀さんだった。その成田さんに話を持ちかけた
 ら「伊藤さん。わらび座に行こう」となった。「わらび座でインターネットを利用
 して、新聞を発行する人がいないかと待っている人がいるんだ」。
 
  その言葉に一縷の望みを掛けて、わらび座の「デジタル・アート・ファクトリー」
 に走った。長瀬さんとは大曲市に「おばこネット」が誕生した際に「きたうら花ねっ
 と」と姉妹関係を結ぶと言うことで取材し、名刺交換程度の面識はあった。「実は
 インターネットを使って新聞をやってみたいのです」。こちらの話に長瀬さんも「
 いやー。我々もそうした人が出て来ないかなと期待してたんです」と意気投合。そ
 ばで話を聞いていた海賀さんとは初めての出会いだったが、「へー。面白そうです
 ね」と強い関心を寄せ、「技術的な面は海賀君に任せることにし、伊藤さんとにか
 くやってみましょう。インターネットだけの新聞。もしかしたら日本で初の新聞と
 言うことになるかもしれませんよ」。
 
  しかし、新聞を発行することになったとしても収入はどうするか。この肝心な点
 でもいろいろ話し合ったが、インターネットの世界では購読料を集めると言う手段
 は難しいと言うのがその場での結論だった。「とにかく伊藤さん。やってみてアク
 セス数が多くなるのを期待しましょう。アクセス数が多くなったらきっと企業が放っ
 ておけず、伊藤さんの新聞に広告を出させてくれとなるかもしれません」。そんな
 助言と励ましを受けて新聞発行を決意した。そして96年11月。表紙のデザイン
 はプロのデザイナーに依頼し、パソコン音痴はほぼ一カ月、海賀さんの所に週1回、
 ノートパソコンを持ち運び、ニュースの更新方法を学んだ。
 
  だが、パソコン音痴の悲しさは、海賀さんの所で学んだ知識も技術も家に帰ると
 頭の中が「真っ白」な状態となり、「どこをどう操作したっけ」と路頭に迷うこと
 ばかり。パニック状態となっては海賀さんに泣きの電話を入れて随分、手こずらせ
 た。こうした試行錯誤の繰り返しをしながらも12月1日には日本初のインターネッ
 ト新聞「秋田県南日々新聞」が「花ねっと」をキーステーションに立ち上がったの
 である。
 
  そんな貴重な思い出があるせいか今でも「きたうら花ねっと」に顔を出すと故郷
 を訪れたような気分になる。
 さてその長瀬さんは言う。「インターネットをうまく使うことによって、これま
 で都会でしかやれなかった仕事がこの地方でもどんどんやれる時代になると思うん
 です。機械の設計だってそうだし、作曲活動、デザイン、小説の創作だってこれま
 では出版社が近くにいないと不便だったが、インターネットを使ったらそれも要ら
 ない。何もあんな喧騒な都会で生活しなくてもこの地方に住んでいても芸術活動だっ
 て済ますことができる。商売だって全国を相手にやれるし、鹿児島のおばあちゃん
 から頼まれたのを秋田の人が手助けする。そんなことだってやれます」と。
 
  「そのためにも『きたうら花ねっと』はパソコンを自由に使いこなせる人を少し
 でも育成し、パソコンを使うのが当たり前の事という環境を目指したい」とも語る。
 花ねっとの事務室にはパソコンがズラリと並び、定期的なあるいは企業や団体から
 依頼を受けての不定期なパソコン教室が開かれている。それもパソコンを少しでも
 操作し、インターネットを自由に使いこなせる人を育成するためだ。
 
  「作家や音楽家、あるいは設計士。これまで中央に居ないと出来なかった仕事が
 この北浦地域に住みながらやれる。そんなふうに『きたうら』全体が芸術村になっ
 てくれないかな」。長瀬さんは海賀さんを含めた4人のスタッフに熱い夢を語る。

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