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心ひとつに明日を拓く、秋田県美郷町立美郷中学校

 〒019-1404 秋田県仙北郡美郷町六郷字作山13-3

TEL.0187-84-2020 FAX.0187-84-1424

昔、美郷町にも戦争があったmemories of the Pacific war

生徒による社会科研究発表「昔、美郷町にも戦争があった〜戦後71年、初めて出会った戦争〜」の内容を再構成して掲載します。

はじめに

 これから「昔、美郷町にも戦争があった 〜戦後71年・初めて出会った戦争〜」の発表を始めます。私たち3人は、あるニュースをきっかけに美郷町と戦争との関わりについて調べることになりました。そのきっかけについては、「1.アンケート調査の結果」の最後にお話します。


1.アンケート調査の結果

 まずは、私たちの通う美郷中学校・全校生徒を対象に行った、戦争についてのアンケート調査の結果についてお伝えします。アンケートには、欠席者などを除く477名が協力してくれました。477名のアンケートをまとめるのは、結構大変な作業でしたが、貴重な情報をたくさん得ることができました。アンケートの質問は全部で4つです。


質問1 「戦争」について、あなたの気持ちに一番近いものを選んでください。

戦争はどんなことがあっても絶対にしてはならない  418人 
戦争はしてはならない   37人
戦争はしない方がいいが、国と国とのもめごとや対立を解決するためには、やむを得ない場合もあると思う   21人
国と国との対立やもめごとを解決するためには、戦争をしてもいい  1人 

 大多数の人は、「戦争は絶対にあってはならない」と考えているようですが、「やむを得ない」と考えている人も少なからずいるようです。


質問2 戦争を題材にしたテレビ番組や小説、映画、漫画などを読んだり、見たりしたことがありますか

ある  462人 
 ない 15人 


 「ある」と答えてくれた462人には、「それはどんな作品か」を聞いてみました。
 圧倒的に多かったのが、「ほたるの墓」。空襲で親を失った兄と妹が必死に生きようとする姿を描いたお話で、悲劇的なラストシーンが心に残ります。終戦記念日のある夏になると、テレビで放映されることも多いので、それで見た人が多いのではないでしょうか。
 2番目に多かったのが、「はだしのゲン」。舞台は原爆投下後の広島。原爆で家族を失った主人公・中岡ゲンがたくましく生きる姿をえがいています。学校の図書館に置いてあるので、読んだことのある人が多かったものと思われます。
 3番目に多かったのが、「永遠の0」。現代に生きる青年が、特攻で戦死した祖父のことを調べていくうちに、今まで知らなかった祖父の意外な一面に触れていきます。2013年の冬に映画化されたので、まだ記憶に新しいという人が多いのかもしれません。
 他に挙げられていたもので、「ちいちゃんのかげおくり」は小学校、「大人になれなかった弟たちに」は中学校の国語の教科書にのっているお話です。このように映画や本で、戦争について触れたことがあるという人はたくさんいましたが、直接体験となると、どのくらいの人がしているのでしょう。


質問3 学校の授業以外で、戦争について、直接、体験を聞いたり、調べたりしたことがありますか。

ある  74人 
ない  403人 


 「ある」と答えてくれた人の数が、「質問2」よりもかなり減りましたが、それでも74人います。「ある」と答えてくれた74人には、「どんな体験をしたのか」を聞いてみました。中には、土崎空襲を体験した人からお話を聞いたという人や、広島の原爆資料館に行ったことがあるという人もいました。しかし、「戦争を体験した家族から、当時の生活の様子を聞いた」というのが、回答のほとんどでした。当時の生活の様子、食べ物が無かったこと、学校でどんなことをしていたのか、赤紙が来た時のこと、空襲のこと、防空壕に逃げたこと・・・。そして、実際に戦争に行った人から、戦地の大変さを聞いたという人もいました。
・戦地では食べるものが無くて、草ばかり食べていた。
・ひいおじいさんが出征して、片足を失って帰ってきた。
・ひいおじいさんが特攻隊で、次は自分が『国のために死ななければならない番』だったけれど、そこで戦争が終わって命拾いをした。戦争が終わった後は、戦争で亡くなった人の分もと思い、必死で働いた。

 それでは、話を美郷町内でのことに限ってみると、どうなるのでしょう。最後の質問になります。


質問4 「美郷町内のことで、戦争に関わることを何か知っていますか」

知っている  7人 
知らない  470人 

 「知っている」と答えてくれた7人には、「どんなことを知っているのか」を聞いてみました。「朝鮮人が来たり、疎開の子どもたちが来たりした」という話を聞いたことがある。「後三年地域に爆弾が落とされた」という話を聞いたことがある。そして他の5人は、皆同じようなことを書いていました。5人が書いた内容をまとめると、次のようになります。明田地(みょうでんじ)の方に、飛行場のようなものがあり、それがアメリカ軍機に攻撃された?・・・・・というようなことを県内ニュースでやっていた。5人は、皆同じニュースを見ていたと思われます。そして、このニュースを見たことが、私たちがこの研究発表をするきっかけになりました。それは、NHK秋田放送局が放映した明田地飛行場に関するニュースでした。このニュースの中では、自分たちが何度も通ったことのある道路が映し出され、ここで多くの人が飛行場建設に携わり、さらにはアメリカ軍の機銃掃射を受けたということまでが語られました。


2.図書館・資料館へ

 私たちは、この「明田地飛行場」(正式には六郷飛行場)のことについてさらに詳しいことが知りたいと考え、町の図書館や資料館を訪ね、関係する資料をさがしました。町の歴史民俗資料館の中には、戦争に関わる展示のコーナーもありました。そこには、防毒マスクや軍人手帳など、戦時中に使われた品々がいくつか展示されていましたが、残念ながら、図書館や資料館では、明田地飛行場に関する新しい情報を得ることはできませんでした。


3.飛行場建設のために上部を切断された松の木

 そこで、私たちはニュースでも紹介されていた地元の歴史を調べている研究グループ・「六郷史談会」のメンバー・岩屋さんに直接お話をうかがうことにしました。小学校の校長先生をおつとめになった方で、地域の歴史に大変お詳しい方です。岩屋さんから、「飛行場建設に関わる松の木がある」というお話を聞いた私たちは、実際にその松の木を見にいくことにしました。下の写真がその「小西家の松」です。上の方がばっさりと切断されているのがわかりますか?飛行場建設が進められていた当時、「この松は、飛行機の離発着のジャマになるから切りなさい」という命令が軍部からあり、切断されたものだそうです。この松の前には「このようなことがあったことを後世に伝えよう」と案内看板が立てられています。

六郷飛行場建設のために上部を切断された松の木

4.飛行場建設とアメリカ軍による機銃掃射

 次に私たちが訪れたのは、ニュースでも紹介されていた宇佐美さんという方です。宇佐美さんは、高校の先生を長くされた方です。ニュースでも紹介されていた通り、宇佐美さんは、この飛行場建設が行われた時、六郷国民学校の6年生で、実際の建設作業にも参加された方です。宇佐美さんからは、飛行場建設の体験をうかがっただけでなく、六郷飛行場についてのことが書かれている資料をいくつか紹介していただきました。岩屋さんや宇佐美さんに直接うかがった話やいただいた資料から次のようなことがわかりました。
 この飛行場建設の中心になったのは、この地域の小学5,6年生2千人程度。後に、横手や大曲の高校生などが作業に加わりました。作業は、昭和20年5月の中頃から、終戦前日の8月14日まで土日も休みなく続けられました。金沢西根や千屋の子どもは、片道8キロの道のりを毎日歩いて通いました。作業に一区切りがついた7月15日。見学とお祝いを兼ねて六郷国民学校の全校児童が飛行場を訪れていました。すると山の向こうから飛行機が現れます。飛行場にいた人たちは皆、日本軍の飛行機がお祝いに駆けつけてくれたものと思い、バンザイをしてこれを迎えます。ところが近くまで来ると、これが敵の戦闘機であることがわかり、飛行場にいた大勢の人々は、大混乱の中、逃げまどいます。六郷飛行場の攻撃をしたのは、アメリカ軍の戦闘機・グラマン2機。当時、岩手県の太平洋沖にアメリカ海軍の空母が停泊(ていはく)していたことがわかっており、そこから飛び立ったものと思われます。現場には、何百人もの人間がいたはずですが、この攻撃による死傷者はゼロ。「お前たちが、ここに飛行場をつくっているのはわかっているぞ。そんなことをしてもムダだ。」アメリカ軍の攻撃は、そんなデモンストレーションだったのかもしれません。

※当時小学校は国民学校になっていました。横手高校は旧制中学校、横手城南高校・大曲高校は、旧制高等女学校でした。


5.細谷さんの体験

 細谷さんは当時19才。六郷国民学校の教員として、この日子どもたちを連れて飛行場を訪れていました。細谷さんは、この時のことをこうふり返ってくださいました。「この日は電気が休みの電休日で、空襲警報も鳴らない中、味方だと思った飛行機が突然攻撃をしてきた。子どもたちを守るのに必死で、その後のことはよくおぼえていないが、飛行場のすぐそばにあった兵舎の中に逃げこむよう、子どもたちを誘導した。8畳程度のさほど広くもない建物の中に、40人ほどの子どもたちが折り重なるようにして避難した。日頃から、「空襲の時は、親指で耳をふさぎ、4本の指で目を守る」よう訓練を受けていたので、兵舎の中の子どもたちが皆そうしていたのをおぼえている。この攻撃の直後、六郷のまち中には、『六郷国民学校の子どもたちは全滅した』という噂が流れたため、泣きながら子どもたちを迎えにきていた保護者の様子は今も忘れられない


6.明田地飛行場跡へ

 美郷町明田地地区。美郷中学校からは2kmほどしか離れていません。この写真の道路付近で滑走路の建設が進められました。何百人、何千人もの人間がこの場所で飛行場建設の作業に汗を流し、グラマン戦闘機の攻撃を受けました。この道路は今まで何度も通ったことがありましたが、ここでそんなことがあったなんて想像もしませんでした。


7.高橋さんの体験

 高橋さんは上のニュースに登場していた方です。ここ明田地で生まれ育ち、7才の時にグラマン戦闘機の攻撃を目の当たりにしました。攻撃を受けた高橋さんは、飛行場からほど近い自宅に向かって逃げ帰ります。戦闘機が去った後、家の壁には、銃撃を受けた弾のあとがたくさんのこっていたそうです。
 下の写真は、この時の攻撃で使用された銃弾です。高橋さんが家のジャガイモ畑で拾っていたものを、大切に保管していました。長さ約6cm。持ってみるとズッシリと重く、これで攻撃されたらひとたまりもないと感じました。

六郷飛行場空襲の銃弾

8.飛行場の跡

 これは、戦争が終わった後の昭和23年(1948年)5月にアメリカ軍が撮影した空中写真です。下の画像の左上青わくでかこんでいるあたりが現在の美郷中学校付近。画像右側、ほぼ、たて方向に、六郷飛行場の跡がはっきりと写っているのがわかりますか。2枚目の赤わくでかこったあたりが六郷飛行場になります。
六郷飛行場跡の空中写真(クリックしてご覧ください。)
※国土地理院がインターネットで公開している米軍撮影の空中写真を加工したものです。


9.後三年の空襲

 さて、私たちは、はじめ明田地飛行場のことについて調べていましたが、いろいろと調べていくうちに、終戦5日前の8月10日早朝、今度は後三年駅付近を走行していた汽車をグラマン戦闘機が襲い、乗っていた大曲農学校の生徒ら、少なくとも3人が死亡していることがわかりました。ここは、後三年駅のすぐそばにある踏切です。汽車は、この踏切を通過したあたりで爆撃を受けました。


10.久米さんの体験

 久米さんは、爆撃を受けた汽車の中にいて「九死に一生」を得た方です。当時、久米さんは大曲農学校の2年生で、爆撃された汽車の先頭車両に乗っていましたが、グラマン戦闘機の銃弾は、汽車の壁を撃ち抜き、車内にいた通学生らを襲います。そのうちの一発が、久米さんの背中に直撃します。久米さんは、その時の衝撃と背中にせおっていたかばんの中で何かが激しく動き回る気配を 今でもハッキリとおぼえているそうです。
 下の写真が、久米さんが背負っていたかばんの中で激しく動きまわっていた銃弾です。戦後71年、久米さんが大切に保管していました。久米さんがせおっていた通学用のカバンの中には、厚い教科書数冊とセルロイドの筆箱が入っていて、これらが久米さんの命を銃弾から守りました。この後三年空襲については、秋田魁新報(昭和62年8月11日付け)でも詳しく紹介されていますのでお読みください。

後三年空襲の銃弾

おわりに

 まとめに入ります。「戦後71年が過ぎ、戦争当時を知る人が少なくなってきているけれど、時間をかけて地域をまわれば、まだまだ当時を知る手がかりがあり、当時のことを伝えていかなければと考えている人も少なからずいる。」それが今回の発表で強く感じたことです。私たちが今回、見聞きしたことをより多くの人に知ってほしい・・・そのために、ふたつのことを提案します。

 1つ目は、町の歴史民俗資料館の展示についてです。六郷飛行場のこと、後三年空襲のことは、資料館の展示では一切触れられていませんでした。もし、それが可能であれば、高橋さんや久米さんがもっていた銃弾などを資料館に展示し、六郷飛行場のニュース映像をいつでも見られるようにするなどすれば、この地域と戦争との関わりをもっともっと多くの人に伝えていけるのではないでしょうか。
 2つ目は、案内板の設置についてです。「六郷飛行場のことを後世に伝えたい」そんな思いで、「小西家の松」の前には、案内板が設置されました。六郷飛行場跡地や後三年駅付近にも、これと同じような案内看板を設置してはどうでしょうか。目立つ案内板があるとないとでは、全然違います。それを見たことがきっかけで、地域の歴史に興味をもつ人もいると思います。
 最後は、この夏、101才で亡くなった美郷町六郷出身のジャーナリスト「むのたけじ」さんの言葉で、しめくくりたいと思います。むのさんは、自身の戦争体験から一貫して反戦・平和を訴え続けたジャーナリストで、その死は、新聞・テレビなどで大きく報じられました。むのさんは、出演したテレビ番組の中での「この世から戦争をなくすにはどうしたらいいか」という問いに対し、次のようにこたえています。「ひとりひとりが自分を大事にすること。それ以外は何もいらない。自分で自分を敬うことができれば、敬うべき他人が見えてくる。」


謝辞

 この発表にあたり、地域の皆様から貴重な情報を多数いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。


おことわり

 この内容は、生徒が一心祭・大曲仙北社会科研究発表会・六郷史談会特別研修会で発表したものです。至らない点がありましたらご容赦いただきますようお願い申し上げます。


参考文献

・『六郷小学校百年の歩み』(六郷小学校百周年記念事業協賛実行委員会、1974年)
・「グラマン終日来襲」(1945/8/11付秋田魁新報)
・鈴木宏正「グラマン襲撃の記録」(1987/8/11付秋田魁新報)
『りゅうが』(六郷史談会)


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